2019年07月18日

出てくる出てくる

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押入れを開けるのは正直怖々。
二人の人生の記録みたいなものが
詰まっていて、
それらを、捨てていかなければなりません。

二人が大事に封印してきたものが、
私にとってゴミ…
これがとっても悲しいこと。

でも…
勇気を出して
綿ぼこりの中に埋まっていた両親の歴史を一つ一つ
取り出します。

何といく組みもの寿写真に、
若かりし頃の
父母、私、弟が。

これは従兄弟の一人の結婚式集合写真。
上から父、弟、私、妹みたいな従兄弟、すでに他界した叔父。

着飾った私の若さ!

まあ自分にもこんな日があったとは…

さらに、
母の履歴書も…

教員だった母の履歴を教育委員会が記録したもので、
昭和19年韓国済州島から始まって、
昭和57年に閉じていました。
詳しく昇給状況や取得した資格、労働運動で受けた戒告処分まで記録されていました。

まさに母の歴史。
捨てられませんでした。

給与は、始め56円。
弟が生まれた年は15.100円
今とは貨幣価値が違いますが、
それでも決して高くはありません。
戦時中の厳しい時代に、
母は代用教員として、
今計算すると十九歳で教壇に立ったことになります。

だからいつも、
自分には学歴はないけど、
全部実践で培ってきたと言っていました。
少なからず劣等感との戦いはあったようで、
もちろん、
等級がありますので、
その分給与は低かったようです。
その給与三ヶ月分の高価なオルガンを
私が四歳の時に買ってくれました。

目が悪かった私が、
一つでも何か自分を生かす特技を持たせるためだとか…

母は、教員としては、師範学校を出ておらず、
それがゆえの辛さはあったものの、
ずっと研究研修を続けていて、
まさに教員として生きました。




posted by JOYJOY at 10:33| Comment(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする