2019年11月27日

昨日見た彩雲

C8D1642C-8D87-463A-83BC-1A2A6707A0C5.jpeg
生きる意味も目的も無くなったのに
目覚める。

そして、毎日mustが何某かある。
別にそれをやったからと言って生きるわけじゃない。

若者が使う言葉を使うなら、
「クソ」みたいな事ばかり。
でも「ねばなない」ことのために、体を起こす。
今朝は燃えないゴミ。
昨日は保育園の壁面装飾。

重い体と心で、仕事に向かうため
うちを出た瞬間、私の悪いはずの目に昨日見えた。

この彩雲。

多分、だれかに教えても、
えー?どこー?と言うだろう。

神さまが私にだけ見せてくれたサイン。

でも、これが何?

今では
世の方が、教会よりも私を必要としてくれる存在となった。


というより、だれもやり手がないことばかりをやっているので、
必要とされていると感じるだけなのはわかっている。
けど、無視される場や、その他大勢の一人では生きることなどできない。

たとえ「クソ」でも、
私がやらなければならないことは、私の仕事。
だれも他にやってくれる人はない。

何を思ってるかわからないかよちゃん訪問も、
そのかよちゃんのためのさまざまな事務手続きや買い物も、

どこぞの政治家が、
「だれでもできる仕事だから賃金が安い」.などと
バカにした保育園での、
そのまたどうでも良い仕事も、

そこで、泣いてしまう若い先生の話を聞くことも、

逆に管理職の先生たちのグチを聞くことも、

だれが評価してくれるわけでもない。
やったからと言って、私の立場が変わることも、あの先生に!と称賛が来るわけでもない。
それをやって、私を経由して教会人口が増えるわけでもない。

町内の配り物をすることも、
聞いても、別にどうということもない班長会議とかに出ることも、

両親が残した沢山の物の山を片付け、決められた家庭ゴミの日に出すことも、

一人暮らしで足が痛いおばちゃんのご機嫌伺いをし、時には必要な助けをし、
あなたは大切なお客様ですと、
集会に誘うことも、

本来私がやりたいとも、召されたとも感じる事じゃない。
やりたいことが何なのかも、もうわからないし、ない。

でも、主は私にこんな事しかさせないのなら、
これが私の召された働きだろう。

どれもこれも、どこが神?と思うようなクソ。

せめてそこで自分のタラントを使うしかないだろう。

銀行に預けておかなかったのか…と言われないために。

最も小さい者たちの一人にしたのは、わたしにしたのです。
マタイ25:40

せめてこの言葉がなぐさめになった。

私は、モーセの人生は大っ嫌いだ。

あんな人生の結末がやってくるために荒野の40年とやらがあるなら、
希望でも何でもない。

彼は80歳で天に呼ばれることなく、
それからの40年を、
もはや力尽き、気力もなくしてしまった老いた体で、

本当に神からの力だけで自分の分を全うした。
その間、彼の喜びは何だったのだろうか。
彼が喜び踊った記事は、私は見つけることができない。

ただただご苦労様でしたと言いたい。
posted by JOYJOY at 08:12| Comment(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする