2019年12月30日

みなこうやって去って行った

教会に行くと、
あと、必ずやって来る。

この何とも言い難い寂しさ、虚しさ。
余程力がないと二度といけない。

やって行けないなあ…と言う悲しさ悔しさ。

何とも言えない凍りついた冷たい視線から受けた痛み。

牧師なんてやっていたから余計にそうなる。

熱心にずっと仕えてきた方たちが、
あるところで引いていくが、
多分私も同じものを今味わっている。

「ベッドの端っこに座るな」というマーリン キャロザス氏のメッセージがあった。

真ん中に座らないとずり落ちる。

私は、自分に関してこれをよーく知っていたので、いつも真ん中にいたかった。

もちろんキリストに従うという点についてだけど。

それは具体的には教会の働きにおいて端っこのギャラリーになるのでなく、
真ん中にいて、祈り捧げ仕えること。
ある意味自分を追い込んでベッドの真ん中にいる。
真ん中とギャラリー席では見るもの聞くものは全く違う。

だから献身したかもしれない。
主がどうでも使ってくださる…から。

日曜数時間だけ教会に来て、与え仕え、ニコニコ穏やかに信仰が保たれる人は、成熟した方たち。
凄いなと尊敬していた。
その方たちは、それでベッドの真ん中をキープできている。

でも、ある特別な環境がないと、
ベッドの真ん中に居座り続けることなどできない。
何かの拍子にそうでいられなくなる。なった。
人生で何かの拍子にバランスを崩してしまうことはある。

その時、それでもずり落ちることなく
主に従い続けるには、
やはり力がいる。

信じる力。祈る力。

と言うのが律法だ。そんな力ない。

自分の力じゃ無理…だから祈る。
祈るにも力がいる…無理だから教会…にも行けない。じゃーどうなる?
それがずっと続いたら、
やはりずり落ちるのだ。

保つ力も尽き、努力も戦いももう無駄…ズルズル…

恵みってこんなときに支えてくれるものじゃないのかな?

恵みが昨日メッセージされたが、
恵みが恵みにならない。

教えそのものの中に、すでに律法のきつい縛りが辛くきつくある。

こうなら大丈夫。
と言うのは、
こうしなかったら…できなかったら…という恐怖を持ってくる。

あなたは感謝しないからよ…は、律法だ。
告白しないからよ…は律法だ。

あの人は感謝したから…も律法だ。

あの人は告白徹底したから…も 
人に栄光が返る律法だ。

出来ないくらい
上からの力に耐えるだけで必死な時があるのだ。

こうなら信じ続けられる。

でなかったらダメなのだという恐怖を与えて、
ズルズル落ちる人間を突き落とす。

信徒は恵みで良いが働き人は…は嘘。

全員、どんなに成長しようが変わらない。
働きも恵みでないと神の働きにならない。
特別な人にだけ働きが現れるなら、神の働きじゃない。

働き人が恵みを生きなければ、その言動は自然に律法となる。
自分をも他をも縛る。

やらないとダメ。
やったら◯。

やれないからクビキを一緒につけやらせてくれるのが恵みではないのかな?
携挙だけは恵みじゃないのかな。

賜物、今日合宿だとか…
私は、行きたい。いつもできないから。
単純に預言やりたい。

しかしやっても継続なんかできない。
預言を語る環境が私にはない。

問答無用

やらないと働きはない。
律法が突き落とす。

1日百回以上、しかも一人じゃだめ。
同じ教会じゃないとダメ。

じゃー一人ぼっちのクリスチャンはどうする?

それなら一時期やっても無意味だ。

そもそも教会の働きの中に私の存在はすでにない。

ずっとなかった。

私が代価を払ってきつくても辛くても時間が空けば行き続けたのは会計のため。

教会が困る…それだけ。

ただそれだけ。虚しかったですよ。
お金でしか必要とされないのは。
だって銀行に就職したわけじゃないですから。
でも
そこにしか私の場所はなかった。だからきついきついと言いながら
はあーとため息つきながら、
必死でベッドの端をキープしていました。

今の会計は三人で、全員会計は副業です。
ついでだら、会計だけのために教会に来ている…はない。

だからこれはわからない。

だんだんすべてが虚しくて堪らなくなったとき、
「虚しいんなら止めろ、土曜来なくていい」
氷のような怒声がラインから私に言った。
唯一私が教会のために使えた時間。土曜日に来なくて良いとは、イコール
お前なんか教会の働きにかかわるなということ。
突き落とした。

人が足りず、
聖会中、通訳しながら献金を数えた。すごい速さで賛美の合間に。
でないと、最終には間に合わない。

ヘッドホンを置き、床でお金を数えていた。
その間、賛美がなされていて、ヘッドホンからは賛美が流れていた。
その時の感想を聞かれたが、私は、お金を数えていたので…と答えた。すると飛んで来た氷の魂。

会計が虚しいならやらなくていい。
虚しいかと聞かれたので
せっかく遥々来ても会計だけやって帰るのは虚しいですと答えた。
誰だってそうだ。
当たり前だ。
特別神の召しを受けてやる人はいると思うが、
私など、数字とは全く遠い世界の人間だから。

ねぎらいじゃないの?
お金数えて…が悪い?
理解不能だった。

多分あなたの感性にはカチンと来たのでしょう。
でも、現場はそんなに甘いものじゃありません。
ドタバタドタバタ秒刻みで焦ってます。

ほんの少し、ねぎらいの言葉やいたわりの言葉があれば、多分私はキツくても虚しくても、
教会が困らないよう
このたった一個をやり続けた。

律法が、必死でキープしようとしていたベッドの端から私を蹴飛ばした。

突き落としたのは律法。

感謝できない…
そんな告白するのなら
止めろ!

悔い改めがない。
きよめられてない…

何という乱暴な…

あなたが本当に端を必死でキープしようともがいていたとき、
ただ叫び声しか聞かれなかったとき、

誰一人あなたを蹴飛ばす人はいなかった。
いないよう祈ったし、
周りでみんなで、毛布で覆いました。
それでも教会の働きが止まらないよう、
みんなでない知恵と力を主に捧げた。
とにかく癒されるよう祈った。

あなたは、そんな時も、私を蹴飛ばした。

同じような律法の氷で払い除けた。



信じろ。信じること。

信じ続けるにはある環境がいる。
支えが要る。
あるいは力が要る。と思った。

教会だ。と思った。

しかし信じ続けるという土台がすでに律法だ。

信じ続けられれば◯
できなければ、アウト。

できないから不思議に信じ続けさせてくれたのが恵みだ。

私がガンになったとき。
あれば百パーセント恵みだ。
感謝したからでしょ?と言う誘導尋問は困った。
そりゃ感謝感謝でしたよ。何故か嬉しくて…

努力して苦悶して感謝したんじゃないもの。
恵みが先だった。

何故かわからないけど信じられ、嬉しくて感謝できた。
強いて言えば、最初に教会の祈りがあった。
教会の中にいた。
母の召天で受けていた恵みが私を支えていた。

聖書は言う。
私たちの信仰は神に支えられる。

私は、それを信じたい。

信じることから手を離しそうになったとき、
その手を掴んでくれる恵みの支えを信じたい。

教会。
中にいさえすれば、思索は全く違う。
教会に行けない人間にとって、
これは恵みでも何でもない。
居座り続けられる人間にだけ与えられた特権。

しかし努力と代価を払っても、なお疎外感を感じつつ、それでもよそ者のようにほんの数時間
耐えて座る人間には
高い厚い律法の壁だ。

あなたがこうしないから、こうでないから…と
教会は言う。

そうかな?
ちょっと止まって私の言うことを聞いて欲しい。


体が、心が、思うように言うことを聞いてくれなくなった愛するあの人、この人を思う。こんな気持ちだったのかもしれない。

いずれあなたも老いる。確実に。
老いてきたので、言葉が変わった。

そんな勝手に…と腹が立つ。
でもその通りです。
五年前たとえ私が言っても
怒声ではじかれただろう言葉も、
今さらあなたが言えば、
みなアーメン!とありがたがる。

あなたが老いても、
あなたはそれでも真ん中だ。

あなたがずり落ちる時は教会がなくなる時だから。
それはあなたに与えられた特権。
そこに立つ人間に与えられる特権です。

でもみなは違うのです。
本当に恵みで支えられないと、
蹴飛ばしたらみな落ちます。

昨日私がフワリと慰められて、
息がつけたように、
恵みの神は、それでも私を用いて働いてくださっている!とあの方たちが証しし、
ともに喜べますように。

教会がそんな恵みの場所となるように。
私は、そんな教会に帰りたい。
posted by JOYJOY at 11:21| Comment(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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